昭和四十三年八月二十七日 朝の御理解
X第七十節人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。
人間がいよいよ人間としての値打を作るのはいよいよ霊長たるところを発揮していくことである。人間は万物の霊長と甲おっしゃるから、人間は万物の霊長であるから、霊長としての値打を現していくと言う霊長としての値打を現していかねばならんと言うこと。道理に合う信心をせねばならぬとおっしゃる。霊長としての値打を発揮していけれる生き方、生き方が出来れる人間にならなければならん事は確かに人間である。私は人間であるけれども、霊長の値打のあるはっきりした生き方いわゆる生活が出来ておるかどうか、と言うことを思うて見てその生き方が段々立派になっていく。霊長として外のものではついじを許さない。人間だけに許された立派な生活が出ける。それが出来るに従って値打の信心をさして頂けていくに従って私はそれに霊長としての徳というか、おかげと言うか、そのおかげが徳かとものおて行くのをおかげという。ですから、お参りをさせて頂いてお話頂いて**に合点の行くことがあったり、又心に反省しなければならないような事を頂いたら、それを改めたり、またはそれをいよいよ求め追求して行って行かなければならん。そこんところが道理に合う信心だとこう思う。例えば、いうならば、自分のおかげが欲しいと思うけれどもそのおかげの受け物を持たずにおかげが欲しいと言う手おったんではこれは道理に合いません。おかげの受け物をもって行っておかげの受け物をもって行ってそして、これにおかげをください、と言うなら、道理に合う。そこで、その受け物をいよいよ立派なものを又大きな物を豊かな物にして行くところに私はこの御理解があると思うのですよ。ところがなかなか人間は万物の霊長であるのですけれども、霊長としての値打のある生き方をしておる人は非常に少ない。ただ、霊長としての値打が何処に置かれておるかと又、そんならどういう様な信心から、値打である霊長としての値打のある信心が出来るか、たらいからたらいにうつる50年というである人間だれしも宿命というかね、宿命の元にお互い一生終わって行くのです。たらいから、*に終わって行くところに一生である。それは人間だれしも同じである。生まれるときに生湯を使うと言う意味でしょうね。たらいから始まる。そして死んで行くとき、やはり湯かんをしてたらいの中で清められてそしてあの世に果して行くとこういうのでしょう。それは同じです。けれどもです。神様の願いは人間が人間としての値打として霊長としての値打をいよいよ作ってそれを発揮して行くと言うこと、それを分かりやすく言うならば、神様のお喜び頂ける生活をさせて頂くと言うことそこに例えば、たらいからたらいに渡る50年であっても霊長としてのいわゆる魂が清められた上にも清められ、限りなく美しくならせて頂く事の為に精進させて頂いて、その事を同じあってもあの世にももって行くものこの世に残して行くものが違うだけの事。あの世にもって行くもの、この世に残して行くもの、神様の願いはそこなんです。人間が例えば、ここで50年間それは80年間でもいい。100年間でもいい。100年間なら100年間という神様の目からごらんになれば、それこそ瞬きしたようなかすかな事である。何億年と言うような人間からいうたら、人間の一生と言うものは、それこそ、あっという間である。そのあっという間に霊長としての値打を作させようとなさる。そしていい方の助かり、何時何時までも助かりを私は願ごうておられるのは神愛だと思う。本当の神様の愛情と言うのはこの世でふげん者になってくれよ。健康であってくれよと言うだけじゃあない。霊長としての本当の値打を作って*しいの清まりを願わしてもろうてそれに精進させて頂いてこの世でわずか50年であるけれどもそれから先の願い事を長い長い間をです。助かった御霊を救われた御霊としていよいよ魂の清まりを願われるだから、神様はせねばならぬとこういう。これだけは身につけておかなければならん。これだけはせねばならん。なるほど、信心がない人も信心あってもそこんところ気付かないでただ、目先の幸と言うことだけに終始する人もある。けれどもね、ですから本当に神様の願いと言うものを知ると馬鹿らしい。あいそうがない。神様に対して、ところがその私どもにはやはり生まれると同時から、家のめぐりをかかえ、言うなら、身のめぐりをもって生まれて来る。人間は万物の霊長としての値打を備えて生まれて来るけれども、それと同時にいわゆるめぐりを抱えてもってくる。いわゆる、お互いが、それぞれの十字架を背負ってこの世に生まれて来ると言うのである。そこにです。やはり、霊長として値打を作って行くことのありがたさであると同時に又、難しさを感じます。だから、信心辛抱ということが言われる訳です。信心辛抱さえしておれば、いわゆる信心辛抱でなからなければならない。ただ、たらいから、たらいに移って行く50年であるならばです。何人にもいらんです。皆さん、それこそ、飲んで食うてちょいとそれでいいですよ。けれども、神様はね、永*を願え、願え永*とこういう。何時何時までも助かるをたとえば、願うておられるのである。そこで私どもはどういう様な具体的にいうたら、人間はさせて頂いておったら、そういうおかげを受けられるか、昨夜御祈念の後に光昭君が、ここでお*いたしました。 一生懸命若いながらも本当に信心を解ろうと精進努力しておられるのでございます。次々と神様からお知らせを頂くのですね。夕べは蛇のお知らせを頂いた。ところがです。頭の所だけが蛇が生きておるけれども胴の長いところがもう抜け殻になっておるという。やはり信心によってだんだんめぐりがなくなっていきよる事でしょう。けれども、なかなかそこんところを私はいわば、一つの修行なら、一つの修行を思い立ってしようとしていますが、その修行が成就するところまで、成就するところまで成就しぬかにゃいかん、折角そこまでおかげを頂いたのだから、やはり辛抱しぬかにゃいかん。それはね、やはり、信心修行と言うか、修行の楽しさというか、修行の有難さといった様なものか、身についてこなければ、いよいよギリギリの所までなっていかん。私はどうしても信心にはですね、姿勢ということをいわれますが、やはり意欲を求めて行かなければですね、夕方何とかという途中ちょっと見たんですが、何かテレビの映画にありましたのですが、何をする人か知らんがお医者さんの様な格好をしてですね、その人の弟子になりたいという。どんなに断わられても断わられても弟子にしてくれとこういうけれどももう弟子はとらんとこういう。それをつきまとうてそれこそ突き放されても突き放されても師匠にでしにしてくれとこういう。最後にとうとう師匠か、弟子になることを許すということになる。現代劇でそこんところだけしか見なかった。けれども、その時も私は非常に感激した。感激したよりも感動したんですね。もう本当に折角信心させて頂いておるならばですね。たとえば、これくらいなですね。私は意欲がなからなければですね。たとえば、本当の修行は出来ないと思うですね。どんなに言うなら、試されても試されてもどんな事があっても続いてもそれをやりぬかせて頂くというのはね、それぐらいの意欲がなからなけらば、できんです。私は思います。本当に私どもはよい信心を頂いてここでたとえば、弟子をとるならば、もうはあ、うちにはいらん。私は弟子はとらんというて跳ね返しても跳ね返してもどんな修行でも致しますから、教えて下さいと言うような弟子だけとらんことになったら、すばらしい信心が生まれてくるであろうけれども、現在例えば今日の御理解なら本気で万物の霊長の値打を作らせて頂こう。我か、心が神に向かうのを信心というのじゃとおっしゃる。本当にそういう神になるための道はどういう道かと言うことをです。願いをもたせそれを求めて教えを頂こうということそれこそ、こちらが機嫌を取るようにです。おかげを渡したり、信心を渡したり、それでも10辺いうて聞かせてわからんのを又20辺、30辺も繰り返し繰り返し教えてやってわからせようとしておる自分がです。こういう尊い、こういう有難い信心を本当にあいすまんことだなあと自分は思う。どういう修行でも致しますから、どうぞ、教えて下さい、弟子にならせて下さいと言うようなものじゃなからなければだめです。ちょっとした神様でもお試しにも顔色を変えちょっとしたきついことがありゃあもう私はもてんという。これでは教えようにも教えようがない。いわゆる放任主義をとるよりしかたがない。いよいよさあ、あと二日になっておる修行だからというて、そこに気合いを入れてもらえるおかげ、また自分もその気でおかげを頂いて行こうとする願いを立てなければいけない。皆さんもやはりそうであろうと思うおかげを頂きたい。おかげを受けたい。それは山々であろう。また、私はそれはもちろんと思う。けれども、例えば、いうならば、おかげに魅せられて集まって来る信者に本当の事を教えたい。本当に神様の願いを解らせたい、というのを私は朝晩の御理解だと思うのです。いわゆる神様の思いを取ろうとして下さる神様の思いを心から打ち明けて下さる。それで結局どうかと言うと氏子信心しておかげを受けてくれよ。本当のおかげを受けてくれよということなんです。今日の御理解で言うなら、10年20年のことじゃあない。未来、永*助かっていけれる元をです。作っておってくれよというのである。もうそげんまで頂かんでもおかげ頂きゃあと言わせんでもそういうものが私は心の中にいっぱいあるから、御理解を本気で頂く、頂こうとしない、守ろうとしない。わからんなら、わからんなりにほっておこうということになる。けれども、やはり、そこにはですね。やはり、見やすいとは思えない。私は昨日ちょうど、10時頃だったでしょうか。2 ̄3人のお参りがあっておった。その中に一人の方のお取次させて頂いてその事がいたく心にかかって心にかかってしかたがない。いや、それを思いよったら、胸が何か穏やかでない。落ち着かない。私はあんなことはもう初めてだった。何か私自身が不安で不安でたまらない。それから、私神様にお願いさせて頂いて皆さんご承知の様に私が御神殿に出ると言うことはもう御祈念のときだけしか出らんのですけれども、御神殿に出らして頂いた。その途端、座って柏手打とうとした瞬間に頂きますことはね、座かごというのがありますよね。座かごがきちっとおいてあるところを頂いた。御理解におまえがね、御結界に座らして頂くと言うことに*だと生きがいを感じておられるような御用が出来ておれば心配はいらんということを頂いた。もうそれこそこう本当に何と申しますかね、霜に煮え湯をかけるがごとくですね、人間の不安、焦燥というかね、もうどうにも出来なかった事がですね。もうだから、御祈念もいたしませんでした。そのまま、たって参りました。もうここ御結界に座ったときにはもう大安心おかげになる。自分の心が落ち着いた。そこで思われる事、いわゆるここで私が御結界の奉仕をさせて頂いておるということがです。自分で楽とは思われない有難いというばっかりじゃあない。それは眠うて眠うて おれんごだろ時もある。ところが、ここ二、三日は、私はとにかく足が痛んで、たまらん。本当に御祈念中なんか、身動きもせず、御祈念したいのだけれどももうなんべんもなんべんも足を動かそうとせんとそれぐらい足が痛い。だから、そこんところ痛いけれども、眠たいけれども、苦しいけれども、私が辛抱さえすれば、おかげを受けられる。私自身が助かるのだ。だから、いうならば、私がここで、生涯を感じさせてもらうところのおかげを頂かなければ、ならんということを感じました。なら、そこでこれを皆さんの場合にさして頂いたら、皆さんが例えば、信心がお参りされる事に生きがいを感じられる。心が生き生きとして教会には弾んで向かうだけならば、私は絶対心配はないと思うですね。けれども今申しますように喜びだとか生きがいとか行ったようなものが、無いときがあるけれども、そこんところをです、なら、私が昨日の様に泣く泣くでも辛抱、そこをしぬかして、頂こうとする修行、精神から心に*心が受けられ、おかげが受けられる。ここんところをええ加減にしてはならん。****そこんところであろうと思う。そこんところを私は大事にしなければならん。そう言う様なことがです。どういう様なことになって、行くかというとです。いよいよ、霊長としての値打が霊長としての本当の値打がそう言う修行の中から磨き出されるという。頂けて来ると思うのです。例えば、人間以外の生きがいとか喜びと言ったようなものを感じるとは思われません。それは人間だけに許されたのが生きがいを感じるとか喜びを感じると言うのですから、その喜びをいよいよ感じさせて頂くための修行、いよいよ生きがいをそこに感じさせて頂けるところの修行、そういう修行をして行かなければです。霊長としての値打が発揮されないという事をわからしてもらう。皆さんがたとえば、御用の上にでもそうです。仕事をなさっておられる方がなら、仕事の上でもそうです。仕事をなさっておられる方なら、仕事の上でもです。信心に基づいていわば、働きがい、生きがいを感じられる。そこに喜びを感じられる。ならば、必ず、繁盛のおかげを頂かれることでしょう。また、それで、いよいよ自分自身の人間を作っていく霊長としての値打を作って行くことでしょう。そして、皆さんが信心なさり、その信心がわからして頂くことの楽しみ、人が人間なら、自分が行にんべんの信心が出けておるということに生きがいやら、喜びをわからしてもらい、それが続くとも思われんけれども、そういう時にはそこを一つ切り抜け切り抜け辛抱しぬかして頂いて、私がここに座らして頂くところの修行させて頂いとりゃあ安心だと言う心に不安もなからなければ、心配もない。よしあってもそれは霜に煮え湯をかける様にたちどころ消えて行くようなおかげを受けられる。そこにいよいよ魂の清まりというものをその都度に感じる。それが繰り返されて行くところの信心からです。私は霊長としての値打がいよいよ備わっておると道理に合う信心をせねばならぬ。そういう信心をせねばならぬ、という所をです。皆さん頂いて頂きたい。そして、皆さんの心の中にある例えば、心配とか不安とかあるならば、まず、辛抱しぬくと言うところ、いわゆる信心に生きがいの感じられていない証拠、喜びを頂くところの楽しみが出来ていない証拠ですから、そこんところを頂かしてもらうことに精進させてもらう。修行をさせてもらう。信心しておれば、一年一年ありがとうなって来るとおっしゃるが、例えば、そういう信心が一年一年有難くなってくると言ったような信心は頂けないと言うことを含ませて思うのです。ただ長年、信心しておるだけでは霊長としての値打も出来ない。それを発揮することもなおさら出来ない。その値打を発揮してこそ神様のお喜びである。そのお喜びが徳になる。それがあの世にまで、持っていけれることになり、この世にも残していけれることにもなるのでございますからね。どうぞ。